小史

創業者、笠井康頼は明治42年山梨県に生まれる。憧憬していた従兄笠井重治は子供のころから将来を嘱望されていたそうで地域の有力者の後援を得て米国へ留学し、イエール大学社会学部を卒業後、ハーバード大学大学院に進学、政治経済学でPh.D.を取得し帰国。滞米中、日本人の英語表現の稚拙さ、特に学者の英語力の不足に慨嘆し、政治家を目指す傍ら少資源の日本国の行方は学術の振興が欠かせない急務だとして、当時の山梨県出身の財界人に欧文学術印刷の普及に努めることの重要さを説き、奉加帳を回し協賛を仰ぐことに賛同を得て、ここに「国際出版社」を設立。設立にあたり従弟である康頼を招集し業務を開始した。その後、重治は東京麹町から市会議員として政治活動に重点を置き、終戦後、山梨県から衆議院選挙に出馬、国政に携わり、得意な英語を武器に活躍の場を拡げた。康頼は、太平洋戦争勃発後、招集され従軍し当初は硫黄島への配属予定が、出向間近の台風襲来で編成替えとなり、小笠原諸島父島へと転配され九死に一生を得る。終戦後、重治の政治活動への傾注が「国際出版」の経営を行き詰まらせる結果となった。同時期、康頼の次男が8歳で病没したことを転機として独立を決意し、昭和26年7月「国際文献印刷社」が設立された。

「活字は文明の母にして、印刷は文化の華なり」をモットーに学術雑誌を得意とする頁物印刷で業容拡大に努める。

昭和30年頃、米国は世界のリーダーとして経済の中心をなし拡大・膨張の一途を辿り、印刷物においても自国での生産は割高で、出版社は、英国、イスラエルといった国に発注を行っていたが、両国ともに国力が上昇し印刷コストが高騰。当時、東大の数学教授彌永昌吉先生が客員教授として滞米中、米国の数学者仲間から日本で数学の印刷を手掛けるところはないかとの相談を受け、帰国後、当社へ打診していただいたことからカリフォルニア大学出版局で発行していた隔月誌「Pacific Journal of Mathematics」(PJM)を受注(後、月刊誌)。これが日本における印刷の輸出の嚆矢となり、当時外貨獲得に邁進する日本において、輸出貢献企業としての役割を担う。二年後、プリンストン大学出版局から「Annals of Mathematics」という世界一権威のある数学雑誌を受注、両誌ともに製本まで行い世界各地の購読者に直接日本から送り届ける。以降続々に注文が入り、大学ではオレゴン州立大学、スタンフォード大学、ペンシルバニア大学、ガム大学、東南アジアではシンガポール大学、マレーシア大学との取引が発生。 出版社では、Holden Days、Prentice Hall、John Wiley & Sons、Addison Wesley、Saunders、Consultant Bureau社などとの取引が行われ、一時は総売り上げの20%が国外からの受注によるものとなる。その後、日本の国力が増し、労働者賃金の上昇、為替変動などを経て、ついには、一般家庭水準が米国を追い抜く時代となった。昭和50年代初めには国外からの受注は失われる一方で、国内学会で英文誌発刊の機運が高まり、米国からの仕事の喪失の影響を軽微に止めることができた。 昭和50年に父笠井康弘が代表に就任。平成22年、笠井健が代表に就任し、現在に至る。平成24年末には江戸川橋に自社専用の新本社ビルが完成し、各ビルに分散しているオフィスの集約を図り、更なる飛躍の年を迎えている。「より良いモノ作り」、知識・経験に裏付けされた「より良いサービス」の提供をモットーに、皆様方との関係性をさらに深めて、学術振興・科学技術の発展に努める。


株式会社国際文献社